92年2月 カナダバックカントリー

モイワの林間コースを急斜面にしたような35°程度のオープンバーン。グループ最後のスキーヤーがドロップインした数秒後に発生した雪崩はオレたちが斜面に残した数本のトラックを消し、ボトムで構えていたカメラマンの膝下を埋めたところで止まった。スキーヤーは何とか巻き込まれずに済んだが、初めて目にした本格的な雪崩に膝がふるえた。

94年8月 ニュージーランドバックカントリー
バックボウルを馬鹿でかくしたようなスプリングコンディションのワイドオープンバーンで斜度は25°程度。4番目にドロップインしたオレが斜面中程まで滑り降りた時、雪面がオレを中心部分にのせたままスライドしはじめた。起伏に乏しい広い一枚バーンだったため雪崩のスピードが遅かったし、体が埋まることなく流されたので、広範囲にわたる雪崩だったにもかかわらずまったく無事だったが、その日は一日無言で過ごしたほどのショックをうけてしまった。

2000年3月 新潟バックカントリー
狙ったポイントを無事滑り降り、下山のためハイクダウン中に沢を挟んだ向側、オレたちから20mほど先にある斜度50°程度のシュートで雪崩が自然発生。土砂混じりのうす茶色の雪煙が舞う大きなモノだった。下山ルートからははずれた場所での雪崩だったが、距離が近いだけにかなりゾッとした体験だった。

パウダーを滑り続けていると必ず雪崩に遭遇する。東京ベースで年間4~50日程度しか滑っていないオレの場合ですら19年で3回、平均すると約6年に一回の確率で遭遇し、19年に1回は自分が流されることになる。この計算を、山に住み毎日パウダーを滑っているローカルと呼ばれる滑り手たちに単純に当てはめてみると、確率はグッと上がることになる。しかしこれはあくまでオレ1人のデータで、実際には一生無茶なアタックを繰り返しても喰らわない人もいるかも知れないし、その逆もあるハズだが、こればかりは最後まで誰にもわからない。とにかく誰の目にも明確なのは雪崩はとてつもなく恐ろしく、喰らったら一巻の終わりかもしれないということだけだ。

雪崩に遭遇する度に心の底からビビり、もうパウダーなんか滑りたくないなどと思うが、危険に対する慣れとは恐ろしいもので、気がつくと最高の斜面で無防備にスプレーをぶちまけてしまっている。また、慎重に慎重を重ねてトライしたはじめての斜面も何度か滑るうちに自動的にルーティーンに組み込まれ、単なるいつものポイントと化していたり、毎日そこを滑っているローカルたちに案内されるまま多少の不安があってもドロップしてしまった経験も何度かあり、その度に後で反省したりゾッとしたりてしまう。最近はドロップイン前に「ここで喰らった場合は・・・」などとシュミレーションしたりして恐怖心の維持を心がけている。

オレの仲間に「雪崩で死にたくないからスキー場での楽しさを追求する」と言ってそれを実践しているスノーボーダーがいる。彼は世界の山々を滑っていた旅人だったが、一通り以上の経験を済ませこのような結論に辿り着いたのだ。たしかに万全の雪崩事故回避はパウダーを滑らないスノーボーディング以外にはない。しかしオレたちはパウダーを滑る人種で、しかもより攻める方向に向かっている。やはり彼のように事故に巻き込まれる確率を0%にする事はできそうにはない。どうすればこの確率を低くすることができるかは自分で考え努力するしかないのだが、そこで学び身につけた知識やテクニックも「恐怖心の劣化が招いた危険に対する慣れ」の前ではまったく効力がなくなってしまうことだろう。

ビジターであるオレの目から見ると、ニセコはスノーボーダーに雪崩事故回避の精神が根付きはじめた最初の土地だ。パウダーライディング文明の最先端であるが故に発生する様々な問題が、ここで暮らしパウダーを愛する一部の人たちの長年にわたる努力によって乗り越えられ、その結果新しい常識やルールが生まれ機能しはじめている。日本でこのような場所は他にはない。 しかし今、ニセコでいろいろなことを学び経験した滑り手たちの手によって、少しずつではあるがこの精神が日本各地に伝えられはじめているのを感じる。こうした動きが全体の雪崩事故発生の確率を減らし、結果的にパウダーライディングを愛する我々にとって居心地のよいフィールドを少しでも増やすことにつながるのではないだろうか。そうと決まったらオレもぼんやりしてはいられない。何も知らないスノーボーダーたちに雪崩の恐ろしさや知っていることを伝えなくては。そして スノーボーディングの楽しさをライディングテクニックだけで計っていては決して見えない、この遊びの奥の深さを感じてもらおう。

田口勝朗
1966年東京生まれ。19歳でスノーボーディングと出会う。92年頃まではプロとしてコンテストを転戦し、たまには入賞もしていたが、パウダーライディングの魅力を知りリタイヤ。このころよりニセコに通い始める一方、世界のパウダースポットを訪ねつつ現在に至る。メディアへのアピールにも積極的で、シーズンに数回は雑誌などを通してそのライディングを必ず目にすることができる。今冬リリースのgentem stick制作フィルム"public sentiment"にも出演している。創業10年目になるスノーボードウエア“グリーンクロージング”とCDレーベル“ヤオヨシレコーズ”を手がける八百由 のオーナーでもあり、仕事に山に多忙な日々を送っている。

(フリーペーパー・ニセコローカルマガジン掲載/2004年)