2001年1月の終わり、記録的大雪の日本を後にしてオレたちが到着したジャクソンホールには1週間前から雪が降っていなかった。全米一の標高差を誇るジャクソンホールへの旅は、きれいにグルーミングされたハードパックでの腰のひけた生涯最高速セッションで幕を開けた。

スノーボーディングを始めて今年で17年になる。振り返るといろいろなシーズンがあったが、今が一番楽しく滑れてるような気がする。特にこの4〜5年は毎年今年が一番と思えるシーズンを過ごしている。そりゃあ楽しくない冬なんて一度もなかったけど、なんていうか昔とはスノーボーディーングに対する取り組み方が変わってきて、その結果、自分が本当はどんなライディングをしたかったのか、この先の一生をどうやってスノーボーディングと付き合っていくのか、そんなことがようやく見えてきているからなのかもしれない。
 
スノーボーディングを始めてからの10数年間、オレはストーミーというショップのスノーボードチームのメンバーだった。このチームは、まだアルペンが主流でフリースタイルの大会などなくハーフパイプという言葉すらない頃、もちろん専門誌もなくスノーボーディングがまだスキーに通ずるクリーンなスポーツだった時代から、当時のさわやかスノーボーダー達に白い目で見られながらも、汚い格好をしてスケートスタイルや現在のフリースタイル的な滑りを楽しんでいた不良な集団だ。後に数多くの個性的なライダーを生み出したストーミーチームは、ある意味日本のスノーボーディングシーンのルーツみたいなモノだった。ともかく、このチームで毎日滑り倒し、大会をまわり大騒ぎをしていた頃、「将来なんか関係ねーぜ」な〜んて思っていた頃を、オレの“スノーボーディーング熱中時代”とでも言おうか。スノーボーディングが中心にどっかりと存在していて、そのまわりに生活がこびりついてる状態だった。とても小さなスノーボーディーングの世界の中から社会を眺めていられたこの時代こそ、生涯忘れることのないオレのスノーボード人生の黄金期だった。

しかし、ある時期からスノーボーディングに対する取り組み方に変化があらわれた。ストーミーチームの個性的なメンツがそれぞれ個性的な道を歩み始め、一緒に滑る相手が少しずつ変わり、同時にそれまでは気になっていたメディアを通して伝わってくるシーンにもあまり興味がなくなってしまった。熱中時代のオレはある程度以上のレベル、いわゆる上手なライダー達とのセッションにしか興味がなかったが、幅広いレベルのいろんなスノーボーダー達とのライディングが楽しくなってきたのだ。彼らは、例えば週末日帰り専門のサラリーマンスノーボーダーだったり、ようやくターンを覚えたばかりのサーファーだったり、家庭をもっていたり、仕事を捨て山に移民したり、取り組み方はさまざまだったが、いずれもスノーボーディングが大好きな“無名の好き者”たちだ。他人の目にさらされ、常に評価され続けなくてはならない立場のライダーたちとは異なる価値観を持つ彼らを通して、オレは自分がどうすれば楽しく滑れるのかを知ったような気がする。

現在のオレは、中心に日常生活がしっかりと存在し、その周りにスノーボーディングがこれまたしっかりと根付いている状態、怠けずがんばらないで効率よく働きもっと滑れる生活、を目指している。理想は遠いが、日常生活を楽しみながら首までドップリとスノーボーディングにひたり、レベルを問わずに好き者達との異種格闘技的なセッションを繰り返す今のライフスタイルがオレはとても気に入っている。

今回の旅の目的は太朗クン、ヤーマンと共に、ジャクソンに住むJ.Pに会いに行くことだった。J.Pとの付き合いは10年以上になる。一時期オレの事務所に居候していたり、妻同士も仲がよいこともあり、友達というよりなんだか親戚みたいな存在だ。在日中は一緒にコンテストをまわったり、いろんな山を滑った。外人的な強力プッシュでいろんなところを飛ばされたものだが、彼が国に帰ってから後、数年間は山では会っていなかった。ジャクソンでの久しぶりのセッションでも、きわどいラインを真っ先に攻めていたJ.Pのライディングは、相変わらずオレを無言でプッシュしていた。

この旅を計画しオレとヤーマンを誘ったのは太朗クンだ。太朗クンとの出会いは何年前になるだろう?初めてセッションしたのは春の立山だったと思うが、少なくともあれから10年は経っているはずだ。その後も太朗クンとは楽しいセッションを何度となく繰り返してきた。イメージしたラインをきっちりトレースすることや、目の前に次々あらわれるセクションをアドリブでこなしながらラインをつなぐことがスノーボーディーングの一番の醍醐味だが、結局その日一番のラインをトレースするのはいつも太朗クンだ。

ヤーマンとは以前から知り合いだったが、念入りに話をしたことはなかっただけに2週間の旅の間にお互いを知る過程を楽しむことができた。もともと星の写真を撮っていたらしく、なんだかロマンチックなところもあるが、とても自然体で人なつっこく居心地のいい男で、結構いいライディングをしていた。大昔にヤーマンが作った、流しに吸い込まれてゆく捨てられたうどんを描いた“THE LIFE・うどんの一生”という5秒で終わるとてもくだらない実写アニメーションのファンだったので仲良くなれてよかった。

今回の旅には別の側面もあった。オレたちは日本から遅れて到着する太朗クンの知り合いグループと行動を共にすることになっていたのだ。迎えに行った空港で初めて会った彼らは、意外なほど普通な感じの人たちだった。平均年齢が30代半ばということもあるが、どうみてもスノーボーダーには見えない。しかし話をしてみると彼らはとんでもない好き者たちだった。職業こそ違うが、滑る時間を少しでも多く取れる生活、例えば沖縄から家族と共に北海道に移民した医者(現在は波を求め一家で奄美大島に住んでいる)だったり、サーフ&スノーボードショップのオーナーだったり、45歳にして群馬バックカントリーを攻め続けていたり、雪が降ったので会社をやめちゃったり、ともかく日常生活とスノーボーディングを、それぞれのスタイルで両立させているステキな人たちだったのだ。一生スノーボーディーングを続けていくに違いない、と思える人たちにはいつも刺激を受けてしまう。

岡崎友子ちゃんとは初日からずっと一緒に行動した。宿の手配からスキー場との交渉、山ではガイドまで、さんざん世話になった。冬の間はジャクソンホールに住みスノーボーディング、夏はマウイに引っ越してウインドサーフィン、その合い間にアラスカへ、という生活を続けるなかなかハードコアな人だ。友子ちゃんにとってはこの生活が日常なんだろうが、なんというナイスライフだ。東京に未練たっぷりのオレには到底まねできないが、いつか違う形で岡崎友子級のスノーボーディング的生活を送りたいものだ。帰国前夜まで一緒にいたが、人との別れをこれほど惜しんだのは久しぶりだった。

結局、雪は降らなかった。ジャクソンホールとそのアウトオブバウンズ、ティトン峠でのロードショット&ヒッチハイク、アイダホのターギーというスキー場とそのバックボウル、と少しでもマシな撮影場所を求め動き回ったが、やはりどうにもならなず、ピーカン&放射冷却でマイナス25℃の2週間。かつてこれほど雪に恵まれない旅など一度もなかったが、これほど楽しい旅も初めてだ。楽しみにしていた名のあるローカルたちとのセッションこそ実現しなかったものの、ハードコアな地形のジャクソンホールを舞台に、山を滑ることに関してはトップレベルの太朗クン、J.P、友子ちゃんに加え、途中から合流した好き者チームとのセッションや異文化交流が、オレのスノーボード観の幅をさらに広げてくれた。スノーボーディーングの計り知れない奥深さはメディア的側面からだけでは決して覗くことはできない。スノーボーダーにもいろんなヤツらがいて、取り組み方やレベルやスタイルを越えて影響を与え合えるのは最高に楽しいってことだ。先入観を捨て自分の知らない文化やスタイルをライブで感じ取れる感性をもっと身につけたい。今度は今どきの若者たちとでも滑ってみようか。

海外旅行はあまり好きじゃないがジャクソンにならまた戻ってもいい。

(雑誌Trans world掲載/2001年)